埼玉県大里郡寄居町赤浜の地に石でできたひとつの祠があります。 4月6日柏田稲荷大明神大祭が開催されました。、 
柏田稲荷大明神の歴史について昌国寺当代住職の書いた石碑が現地にありますので、内容を紹介します。
| 御朱印柏田稲荷大明神について そもそも柏田稲荷大明神は文久二年(一八六ニ)、伏見稲荷神社の宮司様から、ご神体とともにその特許状(お墨付き)をいただき、御朱印地の柏田に正一位稲荷大明神の祠を建立した。 |
文久2年(1862)といえば幕末真っ只中。正に風雲急を告げるといったご時勢。それは篤姫の義父島津斉彬、夫である第13代将軍徳川家定、さらに筆頭老中阿部正弘、大老井伊直弼、水戸公徳川斉昭などペリー来航以来の幕末のキープレーヤーは世を去り、時代の主役が将軍、藩主などいわゆる上流階級から勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛、高杉晋作、土方歳三など下級武士、農民出身者に交替する幕末の転換期にあたります。この年生麦事件がおこりました。 | ところが明治維新以後、社会の変化につれて寺院は活力を失い地域住民の意識や関心も薄れ、更に行政の無理解と無責任により無視され続けて今日に至った。寺院としても、どうして無為無策のまま放置していたのか。 |
明治新政府が進めた「近代化」それは欧米列強に追いつけ追い越せの富国強兵策、鎌倉開府以来700年余、武家政権による土地を至上の価値基準とした地方分権制から天皇を中心とした中央集権制の国民国家に変わることでした。その過程で地方、その土地に祭られ崇められてきた神社も国家神道策により天皇の祖先天照大神がおわす伊勢神宮を頂点としたピラミッド構造の末端として位置づけられていくことになります。 この柏田稲荷大明神復興の中心的人物であり大変なご尽力をされた坂本政吉氏はやはり石碑に彫られている碑文の中でこう語っています。 柏田稲荷大明神落慶に寄せて 昌国寺檀信徒 中興 坂本政吉 私の記憶に残る稲荷様は旧吉野川の土手にあり、それは荒れ放題の中にあって、別にお宮がある訳でもなく、近くの者もその存在を知る人は少なかったようである。私もその場所に稲荷様が奉られていると知ったのはよほど後のことである。 |
坂本政吉氏は現在80歳と少しばかりなのでこの描写は昭和初期の情景かと思われます。すでに人々の記憶から忘れられた存在となっていたことがわかります。 第二次大戦終結により「軍事大国」を目指した富国策は挫折するのですが、次の国家目標である「経済大国」を目指してやはり「一億火の玉」となって邁進し続けます。地方の個性より国家の標準化がすすめられた時代が続き、そのような意識の中で村の祠も忘れられていったのかと思われます。 しかし信心深い人々にとっては深い信仰の対象となり、人々がどうあれ時代がどうあれ大明神様もご利益を与えていたことがわかります。 (坂本政吉氏の)祖父が稲荷様の信仰を始めたのは、かって稲荷様があった処の土手を旧男衾小学校新設用の壁材として採って運んだことによる。 当時貧困のどん底にあった祖父は土手側面の田圃の持ち主が親戚でもあり有利な条件の下で稲荷様のご加護もあってか、すべて順調となり、今まで荒れ果てた吉野川の土手も整地され、見違えるほどになって、祖父は収入が以前よりも格段に増したことから、稲荷様への感謝をこめて新宮を造り、神官や地主、近所の人々もお招きして、お祭りしたことを子供心に覚えている。 その後、土手際の田圃の持ち主が数人替わったが、祖父は御神徳(神の恵み)に応えるように、その人達とも話し合って、お宮が古くなれば新調し、神官を招いて祭礼、維持管理に努めた。 生前の祖父の行いをよく見ていたので、祖父亡き後、祖父を見習うようにしようと努めて来たと思っている。 |
激動の昭和がおわり、そして平成の御世がおとづれ20年近くなると、高度成長からバブル崩壊を経験してきた人々の心に変化があらわれます。自分たちのアイデンティティとは何か。今自分たちがあるのはこの美しい郷土、それを守り続け伝えてきた先人・祖先達。国家目標も「強い国家からやさしい社会、豊かな社会へ」「官から民へ」「中央から地方へ」「成長から環境へ」と変わってきたこの時期を象徴するかのごとく柏田稲荷大明神は復興を遂げることになります。 そのきっかけとなったのが前述の「特許状が昌国寺から発見されたことです。目標を見失った時代、グローバルスタンダード化により民族の文化・伝統が忘れられようとする時代、地域社会のコミュニティが崩壊する時代、このような時代に神様が危機感を抱かれたのでしょうか。神様は人間を見捨てられてははいなかった。正にお導きといえるような特許状の発見でした。ここから稲荷様復興への戦いが始まります。 | 平成十八年、町営水道の排水タンク新設に至り、檀信徒と地域住民の有志が協力して柏田稲荷大明神復興のために東奔西走、全国各地に有名稲荷神社を訪ね、なかでも東松山市の箭弓神社、笠間市の笠間稲荷神社等、各地の宮司様から懇切なご教示を仰いで、結果として京都伏見稲荷神社の宮司様に面会の栄を得、特許状の意味と価値の重みを改めて認識したのである。 |
悲願の稲荷様復興は平成18年(2006)に成し遂げられます。碑文の最後は次のように結ばれています。 五穀豊穣、万民豊楽、子孫繁栄、世界平和を祈願しつつ、檀信徒の皆さんや地域住民の方々からのご厚意に報いるものである。 平成十八年五月吉日 曹洞宗赤龍山昌国寺二十一世住職 保坂達司 撰文 |
 
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